歴史ニュース

    1: 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 10:16:13.28 ID:CAP_USER9
    くまもと文学・歴史館(熊本市中央区)の特別展が1日開幕し、鎌倉時代の「元寇[げんこう]」に参戦した肥後の御家人・竹崎季長[すえなが]の奮戦を描く絵巻「蒙古[もうこ]襲来絵[え]詞[ことば]」が熊本で17年ぶりに公開された。

    元寇は、1274年と81年に九州北部沿岸を襲った蒙古(元)軍の侵攻。竹崎が後年、自らの活躍を描かせたのが蒙古襲来絵詞。熊本藩士の大矢野家に伝わり、1890(明治23)年、皇室に献上された。現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵。2001年に熊本県立美術館で公開された。元寇をほぼ同時代に描いた史料として国宝級の価値があるとされる。

    絵詞は前巻(長さ約24メートル)と後巻(同約21メートル)に分かれており、縦はいずれも約40センチ。それぞれの前半部分を19日まで、後半は21~12月17日に展示する。

    公開された後巻には、竹崎が肥後の有力御家人・菊池武房とその一族の横を通って出陣する雄姿などが、情景を説明する文章と交互に描かれている。絵は色鮮やかで、武具の模様や装飾が細密に描写されている。

    特別展は、国難に直面した先人の奮闘を紹介し、熊本地震からの復興に取り組む県民を勇気づけようと、元寇の研究者として知られる同館の服部英雄館長が発案。陶製の球を爆発させる武器「てつはう」など蒙古軍の遺物や竹崎自筆の書状など、計64点の史料で元寇の実態や後世への影響を考察している。

    会場を訪れた熊本市南区の建築士坂井重則さん(70)は「絵詞が色あせていないのに驚いた。これだけの史料が現存するのは奇跡」と話していた。

    特別展は12月17日まで。入場無料。

    https://i.imgur.com/4qtHGTC.jpg
    https://this.kiji.is/430864124722300001?c=92619697908483575

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    1: 樽悶 ★ 2018/11/05(月) 17:33:00.44 ID:CAP_USER9
    明智光秀の出生地とされる県内5つの地点
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181103002374_comm.jpg
    恵那市内にある「明智光秀産湯の井戸」=2018年10月17日午後4時59分、岐阜県恵那市明智町、室田賢撮影
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181103001614_comm.jpg
    山県市内にある明智光秀の「うぶ湯の井」=2018年10月18日午後1時34分、岐阜県山県市中洞、室田賢撮影
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181103001617_comm.jpg
    明智光秀が生まれたとされる明智城の跡を示す石碑=2018年10月17日午後3時45分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181103001619_comm.jpg
    明智光秀が生まれ育ったとされる明智城の跡地=2018年10月17日午後3時44分、岐阜県可児市瀬田、室田賢撮影
    https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181103001620_comm.jpg

     2020年の放送が決まった明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」。県内のゆかりの地では「全国から観光客を集める絶好の機会」と早くも期待が高まっている。だが、光秀の出生地ははっきりせず、言い伝えられる地域も複数ある。なぜなのか。

     「間違いなく可児市で生まれたと思っている」。可児市の冨田成輝市長は自信を見せる。同市瀬田にあった明智城(長山城)では、光秀が生まれ育ったとされる。かつては「明智庄」という庄園(しょうえん)があり、光秀の家臣たちが地元出身という伝承もあることから、出生地の候補とされてきた。城址(じょうし)の近くには光秀の産湯に使われた井戸もあったと言い伝えられている。

     「明智光秀ゆかりの地として、ずっと売り込みたいと思っていた」と話すのは恵那市の小坂喬峰(たかね)市長だ。同市明智町には県指定史跡「明知城跡」がある。地元では毎年「光秀まつり」が行われ、同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸がある。小坂市長は「地元では『うちが出生地で間違いない』という思いが強い」とPRする。

     出生地に名乗りを上げているのは両市だけではない。山県市中洞の白山神社には光秀の「うぶ湯の井」がある。地元の豪族の娘から生まれ、のちに明知城主・明智光綱の養子になったのが光秀との言い伝えがある。瑞浪市土岐町一日市場にある八幡神社には、かつて美濃源氏の土岐氏の居館があり、ここにも産湯の井戸があったと伝わる。このほか大垣市上石津町多良にあった「多羅城」で生まれたとする文書もある。

     これほどまで「出生地」が点在…

    (残り:735文字/全文:1393文字)

    朝日新聞デジタル 2018年11月5日08時53分
    https://www.asahi.com/articles/ASLBL420JLBLOHGB00L.html

    【2020年NHK大河ドラマ主人公、明智光秀の生まれた場所を追え! 岐阜各地「ここだ」主張 】の続きを読む

    1: 名無しさん@1周年 2018/10/25(木) 18:52:33.44 ID:CAP_USER9
    秀吉の城の石垣発見で注目を集める駿府城の発掘現場=16日、静岡市葵区の駿府城公園
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    「秀吉の城」の天守台が発見された発掘現場
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    駿府城関連年表
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     静岡市の駿府城発掘調査で豊臣秀吉が家臣に築かせた天守台の石垣や大量の金箔(きんぱく)瓦が見つかり、専門家からは、秀吉と徳川家康がそれぞれ造った城の遺構が同じ場所で出土したことの希少性や、発掘調査のさらなる可能性を指摘する声が上がっている。市は2019年度に発掘を終え、天守台復元を目指す方針だが、今回の発見が調査や整備の在り方について議論を呼ぶのは必至だ。

     駿府城公園の再整備計画を巡り、田辺信宏市長は市議会2月定例会で石垣構造の天守台復元に意欲を示し「将来の駿府城の再建を目指す」との考えを示した。背景には再建を市に働き掛けてきた市民の熱意がある。

     長年、市民団体で再建を求めて活動している同市葵区の安池康之さん(77)は「まちのシンボルとして駿府城を望む思いは変わらない。観光のためにもせめて天守台はほしい」と期待を寄せる。

     ただ、「秀吉の城」の発見で、駿府城の歴史的価値に対する注目は飛躍的に高まった。

     小和田哲男静岡大名誉教授は「さらに掘れば、家康の5カ国時代の城や今川館が見つかる可能性が高い」と指摘。加藤理文日本城郭協会理事は、秀吉と家康の天守台の遺構が同じ場所に現存するのは駿府城だけだとし「二つの天守台跡を見せる整備を」と提言する。

     石垣構造の天守台復元は市の試算で60億~100億円かかるとされ、石の確保や出土した石垣をどう生かすかなど課題もある。市は「(遺構の)保存を図るべきだとの声が上がることは想定している」としつつ「基本的考え方に変更はない」(市緑地政策課)との姿勢だ。

     <メモ>静岡市の駿府城公園再整備を巡る経過 1991年に駿府公園基本計画を策定。天守台跡に盛り土をして固める天守台広場(高さ5~10メートル)の整備構想を盛り込んだ。2014年度策定の第3次総合計画で、駿府城天守閣の基礎となる天守台の整備に着手するとし、16~19年度に発掘調査を実施。徳川家康が築いた駿府城天守台の石垣が、江戸城を上回る日本一の大きさであることが判明した。18年3月、発掘調査が完了する19年度末までに整備計画見直しの方針を決定すると表明。天守台を、計画していた盛り土構造から、石垣構造に変更することを検討している。

    静岡新聞 2018/10/25 07:53
    http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/557442.html

    【天守台復元か、遺構保存か 「秀吉の城」で駿府城脚光 「さらに掘れば、家康の5カ国時代の城や今川館が見つかる可能性が高い」 】の続きを読む

    1: 名無しさん@1周年 2018/10/16(火) 15:30:30.11 ID:CAP_USER9
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181016-00000044-asahi-soci
    https://amd.c.yimg.jp/amd/20181016-00000044-asahi-000-3-view.jpg
    新たに見つかった天守台石垣。豊臣秀吉の城に特徴的な自然石の「野面積み」という(静岡市提供)

     徳川家康(1542~1616)が築いた駿府城(静岡市葵区)に、豊臣秀吉(1536~98)が配下に築かせた城跡が見つかったと、発掘調査を進めていた静岡市が16日、発表した。約330点の金箔(きんぱく)瓦や野面積みの天守台の石垣から、豊臣期の城の特徴に間違いないという。

     市によると、6~7月、現在の駿府城趾(じょうし)の天守台付近から、金箔(きんぱく)で装飾された大量の瓦が出土。さらに8月ごろには、天守台の南東角に重なるようにして、家康の駿府城とは異なる形状の石垣(南北約37メートル×東西約33メートル)が見つかった。石垣は自然石を積み上げた野面積みの技術を用いており、金箔瓦を作る技術も豊臣期の特徴を示しているという。

     駿府城は、1585~88年に家康が築城。90年の関東移封で家康が江戸に移った後、豊臣方の武将中村一氏(なかむらかずうじ)が入城した。秀吉の死去後、関ケ原の合戦を経て、再び家康が駿府城に入り、1607年から大改修を行ったとされる。戦国時代は城を攻め取った後、我流の城に建て替えるのが一般的だったが、中村一氏が建てた駿府城については詳細が明らかでなく、「幻の城」とされていた。

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