歴史ニュース

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    1: みつを ★ 2018/06/23(土) 02:27:39.89 ID:CAP_USER9
    http://www.bbc.com/japanese/44572149

    2300年前の墓に謎のテナガザル 始皇帝の祖母埋葬か
    ヘレン・ブリッグス記者 BBCニュース

    中国・陝西省にある約2300年前に秦の始皇帝の祖母、夏太后のために作られた可能性がある墓でこのほど、すでに絶滅したテナガザルの一種の頭蓋骨が見つかった。

    英ロンドン動物学会が主導する研究チームによると、「ユンジ・インペリアリス」と名付けられた新たに見つかったテナガザルは、人間の活動が直接、種の絶滅につながった歴史上初めての例である可能性があるという。

    今回の研究をまとめた論文は科学誌サイエンスに掲載された。筆頭著者のサミュエル・タービー博士は、「チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、テナガザルといった世界のすべての類人猿は現在、人間の活動が理由で絶滅の危機に瀕しているが、狩猟や生息域の減少で絶滅した例はないと考えられていた」と話した。

    「しかし、近代には存在しなくなったユンジはこの考えに変更を迫っている。また特にテナガザルの脆弱性を際立たせている」

    秦の始皇帝

    ひつぎが納められた墓室には、テナガザルの骨のほか、オオヤマネコやヒョウ、クロクマの骨なども見つかった。墓の主の可能性がある夏太后の孫は中国の最初の皇帝、始皇帝で、万里の長城の建設や、兵士などの陶製人形「兵馬俑」を近くに埋めた陵墓などで知られる。

    中国文化では、テナガザルは高貴な動物だと考えられ、上層階級がペットとして飼っていた。

    コンピューターを使った再現により、見つかった骨はテナガザルのもので、数百年前まで存在していた種とみられると分かった。
    英ユニバーシティ・コレッジ・ロンドン教授で論文の共同著者、ヘレン・チャッタージー氏は、当時の人間活動が環境に大きな影響を与えていたのはほぼ確実だと、このテナガザルの絶滅は示している、と語った。

    「我々の歴史データからは、これらの要因がテナガザルを南方に向かわせ、現在の生息地である中国の南の端にある限定的な地域に移らせたことが示されている。ユンジの場合は最終的に絶滅してしまった」

    類人猿の中では小型のテナガザルは、アジアの熱帯雨林に生息しており、長い手を使って木から木へと飛び移る能力や、耳に残る鳴き声に特徴がある。

    テナガザルの種のほぼ全てが森林破壊や狩猟、非合法取引によって絶滅の危機に瀕している。中国では最近、テナガザル2種が絶滅。中国で確認されている種のすべてが国際自然保護連合(IUCN)によって「近絶滅種」に分類されている。
    中国のテナガザルの一種、カイナンテナガザルは26頭のみを残すまで減少しており、世界で最も希少な哺乳類になっている可能性が高い。

    (英語記事 Mystery extinct ape found in ancient Chinese tomb)

    テナガザルの多くは絶滅が危惧されている
    https://ichef.bbci.co.uk/news/410/cpsprodpb/10F05/production/_102118396_gettyimages-489123837.jpg


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    1: 記憶たどり。 ★ 2018/06/25(月) 11:42:08.56 ID:CAP_USER9
    http://www.sankei.com/west/news/180625/wst1806250001-n1.html

    源平の争乱の英雄でありながら異母兄、源頼朝に追われ、奥州・平泉で非業の死を遂げた源義経(1159~89年)。
    彼には平泉を脱し、北海道へ渡ったという「北行伝説」が語り継がれている。義経の官位のランクに由来する「判官びいき」
    という言葉に代表される、日本人の深い同情から生まれた伝説は、いつしか一人歩きを始め、思わぬ物語へと変貌を遂げる。

    ■作られた?イケメン

    源義経の前半生は謎が多い。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、歴史の表舞台に立つのは、
    死の9年前にあたる治承4(1180)年。平氏追討の兵を挙げ、静岡の黄瀬川に陣をはった頼朝の元に参じ、涙の対面を果たしたとされる。

    平氏一門を破り源氏政権樹立の立役者となったが、頼朝との関係は悪化。追われる身となり、文治3(1187)年、
    奥州・平泉の藤原氏の元に身を寄せる。同5(1189)年閏4月、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡の襲撃を受け、
    衣川の館内で妻と子を手にかけた後、自害した。

    頼朝に批判的な吾妻鏡には、義経の死に同情的な記述がみられる。室町時代には『義経記(ぎけいき)』が成立。
    背が低く、出っ歯(『平家物語』)の義経は「非業の死を遂げたイケメン」となり、後世の義経像に影響を与えた。「判官びいき」という言葉も、
    同時代に生まれたとされる。

    そして、義経の死後から500年の時を超えた江戸時代の文献に、義経が衣川を脱し、北海道へ逃げ延びたという伝説が現れる。

    ■北行を既成事実化

    義経の北行伝説に関する最古の記述は、幕府の命で編纂(へんさん)された歴史書『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』のうち、
    寛文10(1670)年に完成した続編とされる。義経は自害したとしつつ、「俗伝」として衣川から逃げて蝦夷島(北海道)に渡り子孫を残した、と記す。

    義経と北海道の接点はそれ以前からある。「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」と呼ばれる寓話(ぐうわ)で、蝦夷ガ島に行き着いた義経が
    大王の娘と通じ、兵法書を入手する物語。ただ、描かれるのは頼朝挙兵前の若き義経だ。

    『義経伝説と為朝伝説 日本史の北と南』(岩波新書)の著者で、国士舘大の原田信男教授は「御曹子島渡の話と、義経という英雄に対する
    人々の再生願望が結びついた」と指摘。さらに、領土意識や北海道への関心の高まりを挙げる。

    このころは松前藩を中心とする、いわゆる「和人」の北海道支配が強まった時期。伝説は北海道が日本領であることを内外に示すのに都合がよく、
    義経が北海道へ渡ったことは既成事実化していった。

    アイヌの人々が語り継ぐ伝説とも融合し、和人はアイヌ文化を築いたとされる神、オキクルミ(アイヌラックル)と義経を同一視。
    圧政から蜂起を繰り返したアイヌをのみこんだ。

    ■義経伝説、大陸へも

    伝説の一人歩きは止まらない。18世紀に入ると、義経は北海道から大陸へ渡ったという説が浮上する。

    中国の史書『金史別本』によれば、義経は12~13世紀に中国北東部を支配した金朝(女真)の皇帝に仕えたという。
    さらに、17世紀に建国した清朝の史書『図書集成』は、皇帝の祖先は源義経で、「清」という国号は清和源氏の祖、清和天皇に由来すると書く。

    実は金史別本も、図書集成もニセモノ。だまされる学者は少なかったが、大陸へ渡った説には新井白石も関心を寄せている。
    日本人が中国を制したストーリーを痛快とみる向きもあったようで、幕末のあたりから起こる、壮大な物語を生み出す土壌はこのころからあったとみるべきだろう。

    それは、義経が世界を席巻したモンゴル帝国の始祖、ジンギスカン(成吉思汗、チンギスハン)になったという物語だ。


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    1: しじみ ★ 2018/06/22(金) 17:02:58.28 ID:CAP_USER9
    大阪の大学に所蔵されている史料が、弘法大師の直筆を写し取ったものである可能性が高いことがわかりました。
    そこには、本当に「筆の誤り」があるそうです。

     平安時代初期、高野山を開いた弘法大師空海。真言宗の祖として知られていますが、
    傑出した書家でもありました。その素養の高さを示す新たな史料が今年、大阪で確認されています。

     羽曳野市の四天王寺大学に所蔵されていた「拓本」。
    筆跡などから、弘法大師の直筆を版木で写し取ったものである可能性が高いということです。

     京都にいた弘法大師はある時、嵯峨天皇から服を織るための綿と漢詩を贈られます。
    今回の拓本に書かれているのは弘法大師が即興でお礼と返答の詩を書き上げ、
    使者に託したものだとみられていますが、そこに実は…『弘法も筆の誤り』が?
    「どんな名人でも失敗することがある」ということわざ通り、本当に誤りがあったというのです。

     「闕字(けつじ)を置かないといけないのに忘れている」(高野山大学密教文化研究所 大柴清圓研究員)

     天皇に関係する言葉の前で文字を空ける「闕字」という用法を忘れていたり、
    「奉」という字をあわてて書き加えていたり…。他にも七言詩なのに、8文字になっている句がひとつあります。
    それでも、この拓本の価値は揺るがないと専門家は言います。

     「即興で、下書きなしで書いている。ハイレベルな文人間のやり取りが平安初期にあったんだと」(大柴清圓研究員)

     拓本では、一気に書き上げたとは思えない高度な技法を随所に見ることができます。
    竜の爪のように先を尖らせる書き方、「龍爪」。
    天皇に関係する言葉の上に文字が来ないようにあえて改行する「平出」。
    さらに、同じ文字でも楷書体、行書体、草書体を使い分けています。
    そこには弘法大師とともに「三筆」と称された嵯峨天皇への敬意が込められているといいます。

     「嵯峨天皇は書に対し興味があることも弘法大師は知っていますし。
    だから、あえてこういうふうに色々な鑑賞に堪える文字を使って贈っている。文字で魅せるんです」(大柴清圓研究員)

     「筆の誤り」は、天才同士の交流から生まれた産物だったのかもしれません。
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    https://www.mbs.jp/news/kansainews/20180621/GE000000000000023166.shtml


    【【歴史/古文書】弘法大師、実際に“筆の誤り” 大学所蔵の「拓本」で3か所判明 】の続きを読む

    1: 記憶たどり。 ★ 2018/06/15(金) 12:50:45.31 ID:CAP_USER9
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180615-00050074-yom-ent

    広島県立歴史博物館(福山市)は15日、室町時代初期(14世紀中頃)に描かれたとみられる
    日本の古地図を確認したと発表した。北海道を除く東北から九州までの旧国名が記され、
    同博物館は「日本のほぼ全体が記された最古級の地図」としている。

    確認されたのは「日本扶桑国(ふそうこく)之(の)図」と書かれた縦122センチ、横57センチの地図。
    陸奥国(主に東北地方の東半分)から薩摩、大隅両国(現・鹿児島県)まで68か国の位置や名称などが記され、
    九州側が上、東北側が下になっている。地図中には赤い線で主要な街道や海路が記され、九州の近くには、
    当時の沖縄の地名「琉球」を示す「龍及(りゅうきゅう)」の文字もあった。

    諸国の描き方から、奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)が原形を作ったと伝えられ、江戸時代まで複製された
    「行基図」の一種。東日本や西日本が記された行基図は、これまでに鎌倉時代後期(14世紀初頭)のものが
    見つかっており、「龍及」や「巌嶋(いつくしま)」(広島県)、「明石」(兵庫県)といった当時の地名表記や
    紙の素材などから、作製時期を推定した。


    【【地図】最古の日本全図、室町初期作製か。陸奥国から薩摩、大隅両国まで68ヶ国記載。広島県立歴史博物館 】の続きを読む

    1: 記憶たどり。 ★ 2018/06/13(水) 14:41:07.85 ID:CAP_USER9
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180613-00000027-dal-ent

    NHK大河ドラマ「西郷どん」で俳優・松田翔太演じる“ラスト将軍”徳川慶喜が脚光を浴びる中、
    唯一存命する慶喜の孫・井手久美子の自叙伝「徳川おてんば姫」(東京キララ社)が13日、発売された。
    大政奉還から150年となる昨年に書き上げた波乱万丈の人生が明治150年の今年、書籍化され、
    95歳にして作家デビューを果たした。千葉県内の自宅で筆者の思いを聞いた。(文中敬称略)

    1922(大正11)年9月22日に当時の東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区春日)にあった
    徳川家の屋敷で生まれた。「祖父が亡くなって9年後に生まれたので『お写真様』と呼ばれる部屋に飾られた写真を
    『おじじ様』と教えられました。“おかか”がおじじ様の好物だったそうです」。公爵で従一位だったことから“一位様”
    とも呼ばれた祖父は、日常会話の中で生きていた。

    その住所から「第六天」と称され、慶喜が生涯を閉じた屋敷は3400坪で約50人が生活。幼少期から姉たちと庭で遊び、
    女子学習院には車の通学を嫌って市電で通った。外で遊べなかったが、学友と敷地内のテニスコートでボールを追った。
    乗馬など運動好きで、いつも日焼け。「楽しくて夢のようでした。木に登ったり、おてんばでしたね」と笑う。

    18歳で侯爵家の長男・松平康愛と結婚。久美子は「結婚式で十二単(ひとえ)を着たのですが、はかまの丈が短く、
    その中に蚊が入ってきて、かゆくてたまりませんでした」と裏話も。夫は海軍少尉として出征。自身は空襲時、
    疎開先の八王子で火の粉が飛ぶ中、バケツを持って屋根に上がった。「戦争中は大変でした」。敗戦の玉音放送を聞きながら、
    「ほっとしました」と実感したが、翌年、夫の戦死が確認された。

    戦後、華族制度は廃止され、戦火を免れた「第六天」は国に物納された。47年、亡夫と成城高校アイスホッケー部で
    仲間だった医師の井手次郎と再婚。徳川家のお姫様は病院の仕事で多忙となる。

    「泌尿器科の患者さんも多く、包茎だ、パイプカットだという言葉も平気になったのですから、人は変わるものです」-。
    50年生まれの長男・井手純は「特殊な所に生まれても、庶民の生活に飛び込んで慣れも早かったところが、
    おふくろの気性というか、今でもこうして生きていられるということなんじゃないかと思いますね」と順応性を指摘する。

    次姉・喜久子は高松宮妃殿下。「実の家族のようにかわいがってくださった」という高松宮親王を通して兄・昭和天皇とも接した。
    第六天の屋敷跡は現在、国際仏教学大学院大学の敷地。久美子は車いすで現地に赴き、今も残るイチョウの下で万感の思いに浸った。

    昨年、39度の高熱を出すなど健康面の不安を抱えながら、13年前に着手して中断していた原稿を一念発起で完成させた。
    長男と暮らす自宅には慶喜の写真と葵(あおい)の紋が額縁に入って掲げられ、その下で「鬼平犯科帳」など時代劇のDVDを楽しむ。
    今年96歳。新刊本を手に「本当にありがたいことです」と実感を込めた。


    初の自叙伝を手に、感無量の心境を語る徳川慶喜の孫・井手久美子さん=千葉県内の自宅
    https://lpt.c.yimg.jp/im_siggm1LqdS2JEUx7FTRM1f2xfA---x900-y675-q90-exp3h-pril/amd/20180613-00000027-dal-000-view.jpg
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